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人の手に はや古(ふ)りそめぬ 初暦 (正岡 子規) 古来よりお正月気分というのは独特なもの。なにもかもがそっくり新しく再生した感じの昂揚感があって、「おめでたい」となるわけでしょう。カレンダーも新しくなりました。しかし、年が明けて数日が過ぎるうちに、新年のカレンダーも見慣れたものとなり、「めでたさ」もどこへやら、また多忙な日常が進行しています。そんな気分を詠んだのがこの子規の句でしょう。 さて皆さん、新年おめでとうございます。元日より紀州の田舎に帰省してきましたので、ご挨拶が遅れました。2008年カレンダーも「ちょいと古くなった」感じの昨日今日ですが、ともあれ、今年も当ブログ「饒舌三昧」、どうぞ御贔屓に願います。では新春は恒例?の、古刹古社めぐり報告と行きましょうか。いや、去年は古都奈良に遊んで、大神(おおみわ)神社と石上(いそのかみ)神宮を訪ねたことを紀行文ふうに綴りました。今年は、というと、ひとつは播州加古川に、もうひとつは京都は太秦に足を運んだお寺は、偶然とはいいながらともに聖徳太子ゆかりの古刹でした。太子信仰の問題となるとこれはいわば宗教民俗学のテーマですが、まあそんなカタイ話しは抜きにして、ともにぽかぽか陽気の冬の日射しを浴びながらのぶらぶら散歩です、ふたつの寺にご案内しましょう。 播州平野は神戸の街を西に抜けた電車が須磨明石の海岸地帯を通り過ぎて到りつく兵庫県南部の肥沃な土地です。中心地は姫路。おっとなると、このブログには時々登場願う作家の車谷長吉(ちょうきつ)さんの故郷であり、その文学トポスのひとつ。大阪駅から姫路行きの新快速に乗って、「そういえば車谷さん、私小説はヤメタというけど最近はどうされてるのかな」などとぼんやり考えるうちに、車窓の風景は広大な播州平野のものとなり、僕は姫路の手前の加古川の街に降り立ちました。ぐるりと見渡すところ、山の姿はなし。正午過ぎの太陽はさんさんと冬の光を撒き散らします。確かに播州は「米どころ」といわれますが、水はけがよくてこの光の具合ならきっと古代から農耕には適した風土だったわけでしょう。豊かな生産力があるところには当然文化が発展しますね。ここには播磨路一の古刹と呼ばれる鶴林寺が西暦700年過ぎには創建されたそうですから、播州の地、あなどることはできません。 駅前からカコバスという乗り合いバス(料金100円)でしばらく行くとそこが鶴林寺。なんでも排仏派の物部氏の迫害を避けてこの地に身を潜めていた高句麗の高僧に仏法を学ぶために聖徳太子が訪ねて以来、太子とこの地との縁が出来たといいますが、きっともうひとつは、天皇家がこの肥沃な地に荘園を持ったからでもあるでしょう。ともあれこの寺は太子ゆかりの寺というので現在の境内の目玉は平安期に建てられた太子堂で、それは国宝になっています。小さなお堂ですが、さすがどこか典雅なたたずまい。もうひとつの目玉は宝物館に安置された聖観音像でしょう。白鳳時代の重文ですが、うんと細い腰のくびれがえもいわれぬ肉感性を与えていて、金銅製でありながら、どこやら実在の身体のイメージを呼び込みます。うーん、信仰の根拠というのはこうした造形的なリアリティーに拠るのでしょうかね。 といった連想から別の日に京都に赴いた折に訪れたのが半跏思惟(はんかしゆい)の弥勒菩薩像で名高い広隆寺であった、というのでは別にありません。たまたま行ってみよう、となったのです。そしたらそこはこれまた偶然、聖徳太子に縁の深いお寺でありました。このお寺の建つ場所は太秦(うずまさ)といって今では「映画村」で知られる観光スポットですが、太秦の「秦(はた)」こそは代表的な半島からの渡来人一族。「日本書紀」によると、その秦氏のひとりが聖徳太子から仏像を賜り、それをご本尊として建立したのがこの寺というわけです。構えの立派な仁王門を入ると、境内の空気がピリッと引き締まるのを覚えます。なにしろ品格を感じるお寺ですね。まあ勅願寺?ゆえにそこここに菊の「御紋章」が刻まれて、金に糸目をつけない管理体制が徹底するからでしょう。金700円也を投じて入った「霊宝殿」は、しかし、なかなかの「眼を悦ばせる」空間でした。国宝「第一号」とされるその半跏思惟の仏様はじめ、国宝や重文クラスの仏像が目白押し。700円は安い!といえるかも、ですよ。半跏思惟像が素晴しいのはもちろんですが(この像も少年のような繊いウエストがよいのです)、僕が一番見入っていたのは背の高さ3メートル近い不空絹索観音像でした。 不空絹索観音菩薩といえば一番有名なのは奈良の東大寺の三月堂にいまします像ですが、いやあ、純粋造型として観れば、こちらの不空絹索さんのほうに軍配が上がると思います。穏やかなお顔だちやら均斉のとれたプロポーションというだけでなく、何本か出た手のその表情の美しさに見とれていました。大野一雄さんやジョセフ・ナジといった名ダンサーは掌だけでダンスをしますが、仏像とて然り。これほどに作り手の神経が細かく行き届いた仏像彫刻の指先というのを知りません。さすが、この仏様も国宝でしたから、価値評価は誤りナシでありました。皆さんも今度広隆寺に行かれた折には、半跏思惟さんだけでなく、その向い側にすっくとお立ちになる不空絹索さんもお忘れなく。他にも妖艶美人の吉祥天女像やら聡明そうな聖徳太子像やら見応え十分、30分ほどがあっという間に経過しました。 さて、古寺巡礼のその旅に持参していた文庫本は今回は岩波文庫の中島敦集。『山月記・李陵』と題されてます。なかの一篇「斗南先生」という短篇を読んでいると、東京帝大時代の作家は「蹴球(アソシエーション)」をしていて、飛んでくるボールをヘディングしようとして相手チームの選手に顔を蹴り上げられ、かけていた眼鏡が大破して顔面にひどい怪我を負ったことがある、とのこと。おお、中島敦もサッカー選手でしたか!というので、ここで新春恒例、和歌山県立粉河高校サッカー部の初蹴りに参加した報告をさせてください。僕の場合、別に怪我もなく無事に紅白戦のOBチームの一員としてプレーした次第ですが。 僕は実は偽OB選手。世界史の教員でサッカー部の監督と顧問を務めるY君は中学以来の友人ですから、まあ縁故を頼って?ここ何年か初蹴りには自主参加してきました。OB組の社会人大学生諸君らにも顔なじみが増えました。しかしそうはいっても、当方は50歳をはるかに越えた中高年プレーヤーですから、出場時間はわずかに10分ほど(笑)。例によって右のサイドバックのポジションに収まりますが、今年はいっこうにパスが回ってきませんな。だからボールタッチは僅かに4回のみ!これじゃほとんど戦力外(笑)。一度だけちょこっと受けたボールをドリブルで右サイドを持ち上がりセンタリング、というか、これは味方の右ウイングにパスしたつもりだったのですが、それはきちんとシュートまでつながって、とりあえず面目を施しました。と思って安心していたのですが、後からY君が親切にも撮ってくれていたわがプレー映像を見ると、ドリブルも緩慢、キックのときの右足も振り幅がうんと小さくて、まるで冴えません。こんな体たらくでは引退勧告?も間近でしょう。キックの基礎から鍛え直し。今年のわが草サッカーにおける課題が見えてきましたぞ。 ま、そんなこんなふうにのんびり過ごした紀州和歌山にての正月休暇でした。そうそう、一夜はわが母校・吹上小学校の男女の同窓生らが6人集まってのプチ同窓会。40年ぶりに会う同窓生もいますが、みんな意外と幼少年期のことを覚えているものです。温かい鍋を囲んでの懐旧談は尽きそうにありません。なかのひとりにはこの春に孫が生れようか、という歳ですが、「幼馴染み」というのはその共同性の時間が止まったままですね。おたがいのユートピアの時代をそこに現前させて、実に愉快な一夜でした。 さて引用句、中島敦の作には孔子の弟子だった子路を主人公とする短篇「弟子」も有名です。では孔子の言行録だった『論語』から引きましょう。ここでは「君子」つまり徳を備えた人物についてこう語られます。 「子の曰く、君子は言(げん)に訥(とつ)にして、行に敏ならんと欲す。」 (『論語』) |
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