林浩平の《饒舌三昧》

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zoom RSS 御坊市の岩内古墳は有間皇子の墓!(1)+また御坊には折口信夫の歌碑があります

<<   作成日時 : 2017/08/27 13:58   >>

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 不揃いな 石を洗って 展墓かな     (安東 次男)

 安次(あんつぐ)さんの分厚い『全詩全句集』のなかにこの句を見つけました。展墓が、墓参や掃苔と同じで旧盆に墓参りをすることから秋の季語ですね。ご先祖の墓の並ぶ墓所にお参りした際の作でしょう。安次さんの郷里である岡山県の津山市の沼という地区を訪ねた記事はこのブログでも紹介しましたが、あの時に出くわした墓地がこの句の舞台なのでしょう。安次さん自身の墓は、深大寺にあるそうです。一度お参りしなくては。

 先日は、和歌山県の御坊市に二泊三日の滞在をしていました。ここは本籍地でありながら、中学校までは和歌山市に暮らしたので、御坊の町のことはよく知らないままです。まあ小学生時代には夏休みとなると祖父母のいる御坊市名田町野島の祓井戸という村の田舎の家を訪ねて、40日間を過ごしたものです。裏の海で泳ぎ、前の山で蝉取りをしたりで真黒に日焼けしてました。その意味では祓井戸の村がわがルーツでもあります。

 その祓井戸にほど近い、日高川河口から数キロ遡った低い丘陵の斜面に、岩内(いわうち)古墳群があって、その一号墳こそが、日本古代史の悲劇の皇子として知られる有間皇子(ありまのみこ)の墓ではないか、というのですね。そのことを、恥ずかしながら、この春に初めて知りました。これは訪ねなくてはなりません。

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 今回の旅では、同じ御坊市にあるいくつかの古墳を巡りましたが(この地は熊野古道が通ることからもわかるように、古代からそれなりの規模を持った集落のあるところでした)、この岩内一号墳、横穴式石室を持ち、墳丘に沿って周溝をめぐらしたうえに、一辺の最長が19.3メートルあるという方墳、どう見ても、地方豪族の墓所というレベルではありません。祓井戸の近くにあるそれこそ地方豪族の墓である秋葉山古墳のことは、次回にレポートしましょう。いや、ここもなかなかのものですよ。少年時代に蝉取りをした近くにこんな古墳があったとは!です。

 御坊市の歴史民俗資料館には、ここの発掘調査で出土した副葬品を展示していますが、驚いたのは、この「銀線蛭(ひる)巻大刀」ですね。こんな立派なものが被葬者の傍らに備えられていたのです。生前に愛用したのでしょう。

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それに埋葬者を納めたのが漆塗りの木棺で、当時は漆は高級品でしたからこれもレアなもの、奈良・大阪以外では初めての出土とか。さらに、六花形の鉄製の棺飾り金具という凝ったものが発見されています。また墳墓の造営方法に、版築(はんちく)といって粘土を突き固める技法が用いられたのも、被葬者が位の高い人物であることの証明となるよし。こうしたいわば状況証拠を踏まえて、考古学界のオーソリティーだった故森浩一氏は、これは有間皇子の墓ではないかと結論されたわけです。西暦658年、蘇我赤兄(あかえ)や中大兄皇子(のちの天智天皇)の陰謀で、紀州の海南の藤白坂で処刑された、かの「悲劇の皇子」ですね。

 森氏がそう推測した有力な根拠があって、これは説得的です。有間皇子とともに藤白坂で斬られた側近に、塩屋連(しおやのむらじ)このしろ(魚偏に制の旁+魚)がいて、塩屋連はその名の通り、御坊市の塩屋界隈を領地とする有力豪族で、有間皇子の父であった孝徳天皇の信任が厚かったとされます。(この塩屋地区、地名から推測されるように、海岸に沿って製塩業が盛んでした。はい、南塩屋の浄土真宗の寺・光専寺は、小生の本家の菩提寺で、祖父母や曾祖母、伯父も眠ります。無論今回の旅でも「展墓」に立ち寄りました。)以下は、森氏の遺著となった『敗者の古代史』から引用します。

「有間皇子の屍は処刑のあと仮埋葬をされていただろう。だが事件の首謀者とみられる中大兄皇子と斉明天皇が亡くなると、塩屋氏が自分たちの墓地内に皇子の身分にふさわしいしきたりで古墳をこしらえたとみている。」

 なるほど。僕も岩内一号墳の前に立って、その説の妥当であることを実感していました。

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 今回の旅で眼を開かれたのは、ここ御坊という町の「奥の深さ」でした。和歌山県には、和歌山市以外に、橋本・海南・有田・御坊・田辺・新宮と古い市がありますが、なかでは御坊が一番地味なのですね。熊楠の田辺や中上健次・佐藤春夫の新宮は、現在も強い文化的な発信力を持っています。ところが御坊となると、まず東京で会うひとたちには知られていません。そもそも御坊という地名、元来は日高なのですが、1600年ころに西本願寺の日高別院が建立されて、そこから「御坊様」の名称が一般化したとか。そうですね、だから僕らも子どものころは「日高の田舎に行く」と言い慣わしていました。

 しかし、この町、侮るなかれ、ですね。そもそも西本願寺との強い結び付きがありますから、町の中心部、いわゆる「寺内町」には豊かな富の蓄積があり、歴史や文化伝統も隅に置けないものがあります。そう、紀州では随一の「小京都」でしょう。たとえば現在は「なかがわ」という和食レストランになっていますが、旧中川邸。山林業で莫大な財をなした中川氏が昭和13年に建てた邸宅ですが、豪壮です。かつては南方熊楠や皇室関係者も宿泊したとか。

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 江戸時代の木造平屋造りの本瓦の屋根が重厚な印象の商店もありました。格子はベンガラ、素敵です。ここは「堀河屋野村」、元禄年間より造られている金山寺味噌(ここでは本来の名称の「径山寺味噌」の商標を用います)や、昔ながらの製法による醤油が有名です。お邪魔してみました。店内に、堀口大学の書が飾られていますね。「熊野人追慕」と題されて、親友だった佐藤春夫を偲んだもの。御坊の味噌やみかんなど紀州の名産を挙げて、「雪国そだちの自分には 不思議にも 紀州のものが口に合う」と歌っています。新潟は長岡が郷里の大学と、新宮育ちの春夫は、東京に出て、ともに与謝野鉄幹の塾に学び、慶應義塾の文科では永井荷風教授の薫陶を受けました。「わたしがフランス文学を学んだのは、堀口大学という大学でだ」とは春夫お得意のジョークでした。

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 またさらに一軒、古くから呉服商を営む大谷さんのお宅にも案内いただきました。いやこのお宅が凄かった。ルーツは京からこちらに渡ってきた神官のお家だそうですが、御坊きっての呉服商のよし、その家具調度に始り、収集された文具や書画骨董など多くの品が上々のものです。二双六曲の屏風が襖にピタリと張り付けされたように展示されているのも拝見しましたが、これはこう展示するのが本来とか。まだお若いご当主がまた、歴史や文化や習俗に豊かな知識と教養をお持ちで、なるほど本当の富裕層とはかくあるべきか、と納得です。座敷では薄茶のお点前を頂戴しました。

 お宝ものの屏風なども画像を撮影させていただきたかったのですが、ちょうど手持ちのデジカメが電池切れ。玄関脇の洋間の画像のみを紹介しましょう。こちらの調度も素敵な趣味です。記念撮影の2ショットは、今回の御坊の旅を濃やかなお心配りで案内くださった東(あずま)睦子さんです。東さんは、故森浩一さんを敬慕されて、岩内一号墳のことを広く伝えようと、「東山の森Ark」という組織を立ち上げて活動を続けておいでです。古墳めぐりでもすっかりお世話になりました。

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 (追加です)
 このときお世話になった大谷さんから、「洋間の画像だけではさびしいでしょう」と、奥のお座敷の襖絵の画像を送っていただきました。これを描いたのは、江戸後期に活躍した東(あづま)東洋という絵師ですが、なんでも仙台藩のお抱え絵師のひとりだったとか。さすがに素敵ですよ、ご覧ください。

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 今回の御坊滞在で、もうひとつぜひ観ておきたかったものがあります。それは折口信夫が、御坊の小竹(しの)八幡の古代の神官にまつわる「日本書紀」で知られる逸話?に関して詠んだ和歌の歌碑です。御坊には折口の国学院時代の親友の田端憲之助の郷里なので三度訪ねているよし、その一回の訪問の際に次の和歌を詠みました。

 雪ふりて 昏るる光の 遠じろに 小竹(しの)の祝(はふり)の 墓どころ 見ゆ

 「祝」とは神官のことですね。これ、なかなかいい歌ですよ。「日本書記」の神功皇后摂政元年の二月のくだりに、神功皇后が日高に来て合議をしていると、昼なのにあたりが暗くなるという天変地異が起こった、という記事があります。その原因を調べると、亡くなった神官ふたりを合葬したのが「阿豆那比(あづなひ)の罪」にあたる、というので、ふたりを別々に葬ったところ、天変は収まったとされます。これはよく、古代におけるホモセクシャルの罪に関連した逸話と言われますね。ゲイであった折口もここには関心を寄せたのでしょう(笑)。いや、どうもそれだけではない、なにかもっと呪的に謎めいた問題も含むように思われますが、ともあれ、戦後この歌を町の有志が歌碑にした次第です。万葉仮名を用いて、釈迢空として刻まれています。

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 歌碑が建つのは、昔に小竹八幡のあった場所です。それを示す史跡碑もそばにありました。さても折口と有間皇子ですが、前回のこのブログでも引いた皇子の有名な万葉歌、「家にあれば」と、もう一首の「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」、この名作とされる二首を、折口は「万葉集短歌輪講」のなかで、後人の偽作ではないか、としているのですね。うーん、折口の鋭い嗅覚がなにかを嗅ぎ当てているのかもしれません。その折口が、この岩内一号墳が皇子の墓かという説を知ったとしたら、さあどんな反応を示すでしょう。

 ちょうどここを訪ねた24日には、朝日新聞が折口生誕130周年というので特別記事を掲載しましたが、僕も米原記者のインタビューを受けてコメントを寄せていました。

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 これもなにかも所縁でしょうか、いささか感慨深いものがありました。いずれにせよ、充実した御坊への旅でした。お別れの引用句、これはやはり有間皇子に関係した言葉で締めましょう。皇子を悼んだ万葉歌です。

「磐代(いはしろ)の岸の松が枝(え)結びけむ人はかへりてまた見けむかも」

                               (長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ))

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
林さんのルーツ御坊の詳細な採訪記、いやぁ〜たいへん勉強になりました。日本書紀や万葉集では、有間皇子は藤白坂で絞殺で終わっていますが、塩屋連このしろとの関連で、御坊の古墳に埋葬されたとの説があるとか。初めて知りました。

折口信夫の歌は明治45年8月の志摩・熊野の旅の最後に田端の家を訪ねた時の歌ですね。『海山のあひだ』と『ひとりして』に収録されています。
また「あづなひの罪」に関して、私は自殺した友人を合葬したのが原因と考えています。一番最初に出した本に書いているので、ご参考までに。

折よくというべきか、「朝日新聞」の折口の記事に、著書の紹介とともに林さんのコメントが出ていましたね。また読者が増えるでしょうね。
sakaho
2017/08/28 20:48
これはこれは、古代文学と民俗学がご専門のsakahoさんからのコメント、ありがとうございます。「あづなひの罪」について、御著でもう一度勉強します。このことを話題にしたこともありましたね。私がコメントをした折口の記事がちょうど朝日の朝刊に出たのをホテルのロビーで読んだ夕方に、小竹八幡の旧跡に建つ彼の歌碑を訪ねた、というのも、不思議なご縁でした。実は、この有間皇子の墓説を唱えられた森浩一さんのお墓を、岩内古墳を訪ねる5日前に京田辺の一休寺にお参りした、ということもあった次第。それについては次の記事で報告します。
ミニヨン
2017/08/28 21:10

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