林浩平の《饒舌三昧》

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zoom RSS 御坊市の古墳めぐり続編です(2)+野島で詠まれた万葉歌は謎めいています

<<   作成日時 : 2017/08/29 20:56   >>

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 猛暑残暑 秋暑追打 余生とは      (高橋 睦郎)

 飯田蛇笏賞を受賞した睦郎さんの句集『十年』からです。つい先日の或る宴席で睦郎さんが乾杯の音頭をとられましたが、そのご挨拶に「私も来年は八十歳」のよし。うーん、「余生とは」に思いを致されることもあるのでしょう。この厳しい残暑のなかで、その思いもひとしお、かもしれません。

 さて、有間皇子の墓かとされる紀州和歌山県は御坊市の岩内一号墳ですが、先週の滞在ではほかにも近隣の古墳を巡りました。紹介しましょう。まずは、名田町野島の僕の本籍地の1キロばかり南に下った、国道42号線脇の山のなかにある秋葉山11号墳と12号墳、通称は「広畑」古墳の二基です。

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 「広畑1号墳」と表記されているのが、秋葉山11号墳ですね。教育委員会の説明文が読めると思いますが、6世紀後半のこの界隈を支配した豪族の墓でしょう。横穴式石室があり、ほとんど完全な形で残っています。いやあこのあたり、壁川崎、通称は「かべご」と呼んでいる地域で、近くには、母親が相続したそう広くない田んぼもあります。いまは休耕田ですが。夏休みを過ごした小学生のころは、近くまで昆虫採集に来ていました。いや、まるで知らなかったなあ。続いては、「広畑2号墳」の画像をどうぞ。

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 このあたり、熊野古道が南北に通っていましたが、それが現在の国道42号線に姿を変えています。ここからしばらく南に行くと、和歌山工業高専ですよ。また近くには、安珍清姫伝説の「清姫草履塚」もあり、その点では神話と伝承のトポスでもあります。

 さあ、ここから北に2キロほど戻りましょう。僕の伯母が80歳を越してひとりで管理する林の本家のある祓井戸を通過してしばらく行くと、関西電力の火力発電所が見えてきますが、その岬状の場所が塩屋の手前にある尾ノ崎です。ここは、尾ノ崎遺跡の一部を現状保全するために作られた史跡公園になってますね。

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 古代の住居も復元されています。そうそう、以前に和歌山市にある県立博物館で、県内の遺跡地図を眺めていて、ほほう、と思ったので、よく覚えていますが、旧石器時代の遺跡としては県内、というか、紀伊半島で最南端なのですね。ですから古いですよ、それから古墳時代、縄文時代、弥生時代と続いて、ずっと平安期までの遺物が発掘されたという、いわゆる複合遺跡なのです。平安時代には、この岬の北あたりの浜辺には煙が上がっていたでしょう。製塩のため、海藻を焼いているのです。

 調べていたら、こんな古歌を見つけました。後鳥羽上皇の三度めの熊野詣に従った歌人の藤原家隆、そう、あの定家のライバルとされる新古今歌人です、彼がここより南にある切目宿で、こう歌っています。「漁り火の光にかはる煙かな 名田の塩屋の夕暮れの空」。正治二年、1200年の12月3日のことだそうです。

 そう、塩屋の海岸は、僕の少年時代は海水浴場なのでした。(いまは関電の火力発電所のために泳げないでしょうが。)僕も水泳パンツ姿で水中眼鏡をもって泳ぎにきたものです。素潜りで潜って、ウニを取ったこともありました。今回、尾ノ崎の突端から浜を眺めて、懐かしかったです。

 さて、あっちこっちしますが(笑)、また南の壁川崎まで戻りましょう。ドライブインの一画に、万葉歌の歌碑が建っています。これはかなり以前から、僕の子どもの時代からありました。万葉集の巻の一の十二番歌です。「吾が欲りし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の珠ぞひろはぬ」。作者は、「中皇命(なかつすめらみこ)」と記されています。

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 最初の写真、万葉歌碑のうえに見えるのが、先ほどの尾ノ崎の火力発電所です。しかし、この歌、どうもヘンな歌なのですね。歌意をたどると、「私が見たいと思った野島のこの風景は見せてもらった。でも、底の深い阿胡根の浦にあるという、珠は拾っていないよ」。なんのこっちゃろ?です。なにしろ十二番めの作です。ほぼ巻頭パート。ですから、いい加減な歌を持ってきたとは考えられません。例の有間皇子の墓が近くにある、という点に注目して、この「珠」を死者の魂と解して(「たま」は魂(たま)に通じています)、皇子の霊をきちんと鎮魂していないぞ、とヤマト王権に訴える歌だ、という解釈もあるそうですが、あながち否定できないと思います。

 さあ、ここまで来たら、僕の本籍地である祓井戸の、その本家にもお立ち寄りください(笑)。実は、この林の家の屋号は、昔から「一里山(いちりやま)」でしたが、それは敷地に一里塚が建っていたからだと言われてきました。で、十年ほど前だそうですが、近所の田んぼかどこかから、昔の一里塚を示す石碑が見つかったので、林家の道路(旧国道)に面した庭に、「一里塚跡」の碑とともにそれを建てたそうです。いまの当主である従弟の話では、なんでも石碑には梵語が彫られていて、再建の際には郷土史家とともに梵語の読めるお坊さんも立ち会ったのだとか。これも従弟の話ですが、石には「さんまい」の文字があるそうです。「さんまい」とは火葬場のこと。確かに昔は、裏の海岸の一画が火葬場でした。そこに続く道であるのを示した、というのなら理屈があいます。うーん、この石碑から20メートルほどの場所にあった離れ座敷で、子どものころはよく昼寝をしたものです。

 以上、僕の本籍地である和歌山県御坊市の田舎のお話でした。石碑の画像をご覧ください。

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 お別れの引用句、前回の折口信夫の流れ?から、先ほどの万葉歌の現代語訳を、折口先生の『口訳万葉集』から引きましょう。

「都に居る時分から、見たい見たいと思うてゐた、野島はやつとの思ひで見たが、底の深いよい景色の阿胡根の浦は、まだ其地に臨まないので、下りて珠を拾ふことも、えせずにゐる。」
                                 (折口 信夫   『口訳万葉集』)

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御坊探訪記の2回目、前回以上に興味深く読ませていただきました。お母上さまの里近くは、古墳時代から続く歴史ある地域だ ったことがよくわかりました。

またなぜ屋号が「一里山」と呼ばれたのか、その由来も納得がいきました。過去に遡ってこういう謎解きをしてゆく話、私は好きですね。

「わが欲りし野島は見せつ〜」の歌の「野島」も御坊で、夏休みに海水浴を楽しんだ浜辺でしたか。この歌については、「玉を拾う歌」として2冊目の本に書いておきましたので、ご覧下さい。
sakaho
2017/08/30 20:55
海に潜ったのは塩屋でしたね。間違えました。祓井戸との地理関係、地図を見てみました。
ついでに、昨日のコメントの『海山のあひだ』も『海やまのあひだ』に訂正。

sakaho
2017/08/30 21:44
sakahoさま、引き続いての懇切なコメント、ありがとうございます。「野島」を詠んだ歌についても考察なさっていましたか。ご本は研究書関係として大学の部屋に並べていますので、追って拝読します。当時の塩屋浜は海水浴場だったので、遠くは大阪ナンバーの車なども停まっていました。砂浜が続いてましたが、場所によっては岩場もあり、そこで素潜り。2メートルくらいは潜れましたね。祓井戸の海岸は磯浜、よく小さな巻貝(「流れこ」と呼んでました)を拾いました。いや、野島界隈のこと、さらに探求してみます。
ミニヨン
2017/08/31 10:31

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