林浩平の《饒舌三昧》

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zoom RSS 『言葉を恃む』は竹西寛子の講演集+故如月小春と劇団綺畸

<<   作成日時 : 2008/04/17 23:27   >>

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 昔日(せきじつ)の 春愁の場(には) 木々伸びて  (中村 草田男)

 若き草田男が青春時代を過ごしたのは四国松山でした。旧制の松山中学と高校に通いながらその繊細な神経と鋭い感受性を、さながら嵐のなかの小船のごとくに激しく震わして「春愁」の日々を送ったことでしょう。その懐かしい学び舎に何十年ぶりかでやってきた折の作がこれです。校内の木々は春を迎えて枝を伸ばし若葉を茂らせています。旧制松山中学すなわち現在の松山東高校のグラウンドには柳の古木が何本も植えられていて、きっと草田男も愛着を持ったに違いありません。しかしその柳、ちょうど先月に道路の拡張工事のために伐採されてしまいました。

 どうしてまた、そんなローカルニュースを当方が知っているのか。それにはわけがあります。これはまた改めてここでお知らせしますが、今年の秋に、松山郊外にある久万美術館の企画展としてこの草田男と、松山中学時代の先輩で大親友だった映画監督の伊丹万作を主人公とする「万作と草田男」展が予定されています。僕はそのコーディネートをお手伝いすることとなって、先月半ばに打ち合せと下見で松山を訪ねたのです。かつての藩校である明教館という古い建物が東高校の校内に移築されているので、それの取材かたがた東高にお邪魔した際、実際に伐採される寸前の柳の古木も見学いたしました。何本かあるなかで、一番古くて大きな木は、落雷のせいか、まっぷたつに大きく割れて傷ましい様子でしたが、これ、なんとか保存するすべはなかったのでしょうかね。天国の草田男さんもきっと惜しんでおられることでしょう。

 さて、この春から新しい職場を得てなにやら身辺多用となり、このブログもご無沙汰気味が続きますが、どうぞ悪しからず。新しい研究室、かなり広いうえに書架がずいぶんあるので、わが家の書斎で積み上げられたままの書物の山を段ボールに詰めて送りました。トータルで40箱!その整理もようやく捗ります。となると、この書斎の書架もだいぶ余裕が出来たので、並べ替え作業をしたところです。同じ著者のものをまとめて並べるとスッキリしてやはり気持ちいい。吉増剛造さんはじめ何人かの著作のコーナーが目を惹きますが、小池昌代さんのところもずいぶん並びます。いま数えると詩集や小説集など全部で16冊。一年間で何冊も刊行されたことがありますからね。ずっと一緒に同人誌をやってきた親しい友人ですのでみんな贈呈くださったのはありがたいこと。もちろん全部きちんと拝見しましたよ。今はこれらをちゃっかりと教材にも使わせてもらっています(笑)。

 もうひとり女性の書き手の著作でわが家にたくさんあったのは、評論家の竹西寛子さんの本。文庫も含めると15冊ですか。竹西さんとは面識はありませんから、こちらはみんな買いました。(竹西さん、作家として小説も書くのですが、正直、僕は竹西さんの小説作品は「買え」ません。どうも物語のダイナミズムに乏しい。まあ2、3冊はお金出して買っていますが(笑)。)竹西さんは昭和4年生れといいますから、当方の母親などと同じ戦中世代。なのにその評論の論理は若々しく艶やかで、同世代の男性の文芸評論家(たとえば、と名前を挙げれば高橋英夫氏や菅野昭正氏などですが)よりもしなやかなロゴスを紡ぎ出すのではないでしょうか。現在もなお「ユリイカ」には「耳目抄」と題したエッセイを十何年にもわたって連載中ですが、身辺雑記ふうのエッセイ(そして竹西さんの小説よりもこっちのほうが「小説」的な魅力を持つと思います)も魅力があるいっぽうで、たとえば『贈答のうた』とか『日本の文学論』といった本格的な古典評論にあってはきっちりと消化された文学的知識が有機的に活かされて堂々たる文芸論の大伽藍を築き上げています。

 ただちょっと気になるのは、皇室に対する敬語使用の馬鹿丁寧さ。まあこれは戦中世代特有の、ということも割り引かねばならないかもしれませんし、それに古典文学の評論となるとどうしても勅撰集など天皇家の人脈との接触が多くなるので、敬語感覚というものが過敏になるせいもあるでしょう。将来もし竹西寛子論執筆を当方が企てるとしたら、しかし、この女性評論家における儀礼性の問題というところにきっと焦点のひとつを絞るでしょう。小説集に『儀式』があり、評論集に『贈答のうた』がある書き手にとって、言語表現における儀礼とは決して見過ごすことのできない主題であるはずです。その竹西さん、岩波書店からこれまでの文芸講演をまとめた『言葉を恃む』という一冊を出されたところ。「講演会の文体」で記述された書物ですが、「講演」とはまた聴衆への儀礼性が関わるパフォーマンスでもあるのです。

 ところで話はガラリと変わります。忙中閑ありというわけで、先日麗らかな春の陽光に恵まれた休日の午後、東京大学は駒場キャンパスの正門前に旧友5人が集まりました。友人らは当方の学生時代に音楽サークルとして創設した「ブリティッシュ・ロック研究会」の元メンバー。要するに学生時代のアマチュアロックバンドの仲間たちが同窓会を昔の活動の地で30年ぶりに持ったというわけです。みんなもう立派なオジサン。正門を入って左手の旧同窓会館が今も残り、ただしフレンチレストランとなって、一般の客にも開放されています。この建物は毎年7月の七夕ころでしたが、サークルで「ダンスパーティー・イン・ロック」なる催しを開き、パー券を売って楽器購入資金を稼いだ場所でした。そのフロアがいまやコジャレたフレンチの店ですから往事茫々。ともあれ、みんなまあ元気でそれなりに充実した日々を送っています、お互いの健康を祝して乾杯、というわけで、元ロッカーたちは白ワインとランチで春の午後のひとときを愉しみました。

 で、肝心?の話はそれではありません。正門前で待ち合わせた際、僕はちょっと早めに渋谷まで出て、松涛鍋島公園の脇をぶらぶら散歩しながら駒場に来たのですが、裏門から「入学」?して構内を行くと、ちょうど新入生の入学シーズンですから各クラブの勧誘ポスターや看板が出ています。われわれの「ブリティッシュ・ロック研」のものは見落としたのか気づきませんでしたが、正門近くに立つのは、おや、「劇団綺畸」のタテ看です。懐かしいなあ。と言っても、今の若い世代のひとはこの名前を知らないでしょうが、われわれが学生バンドでガンガンとやっていた時に、近くの稽古場で芝居のリハーサルをしていたグループのひとつがこの「綺畸」でした。命名者で劇団のリーダーだったのは、如月小春さん。当時はまだ20歳すぎのジャンヌ・ダルク風の?颯爽とした美少女でしたがね。駒場寮の食堂を使ったボロい劇場で、かの名高い『ロミオとフリージアのある食卓』など如月小春作演出の演劇作品が上演されて、その後の小劇場ブームを呼び、如月さんは一躍マスコミの寵児になったわけです。当時「綺畸」の芝居はだいたい観ました。巧いとかヘタとかを通り越して、なんだか切迫感に満ちた舞台でしたね。

 如月さんはその後「劇団NOISE」を結成して精力的な活動を続けましたが、ご存じのように2000年12月19日にクモ膜下出血のために突然亡くなります。享年44でした。「劇団綺畸」は、だからもうすでにいったん解散したはずですが、どうやら近年、如月小春を慕う若い世代の演劇青年たちがその劇団名を復活させたようですね。30年前とはずいぶん趣きの変わった駒場のキャンパスで、既視感を伴った看板を発見してしばし感慨深く眺めていたことです。

 さあ引用句です。竹西寛子さん、『言葉を恃む』中の文章によれば広島高等女学校時代の卒業論文は松尾芭蕉の俳論だったとか。うーん、二十歳そこそこの女学生が立ち向かうにはあまりにも玄妙な芸術論ですが、でもなるほど、竹西さんの古典評論の根っこにはこの芭蕉のロジックに深く学んだことが関わるようですね。では芭蕉の言葉から引きましょう。

「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちに言ひとむべし。」
                            (松尾 芭蕉(服部 土芳)   『三冊子』)

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コメント(13件)

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 竹西寛子さん・・・・・・二十年前に馬鹿田大学教育学部の講義を時々もぐりで聞きに行きました。わたしは政経学部でしたがちょっと興味があったので。内容は全く覚えていませんがとても端正な印象の方でしたね。
 如月小春さん・・・・・・86年春に法政学館で「スケルトン・クルー」のライブを観た時に偶然隣でした。一人で来られていましたね。フレッド・フリスがノリノリでアンコールを6回も演ったのに途中でお帰りになったと記憶しています。芝居を観ることはありませんでしたが。懐かしいな。
 ところで元ピナ舞踊団のファビアンが高校生用に振付した「紙風船」を昨日観ました。傑作。もう70〜80年代のピナそのもの。フィナーレは「ヴィクトール」と「青髭」をミックスしたような凄みがありました。
おやさゆみん
2008/04/18 06:59
訂正「紙飛行機」でした。
おやさゆみん
2008/04/18 07:01
「おやさゆみん」さま、コメントありがとうございます。このところすっかり常連として投稿いただく次第。毎度の御贔屓、感謝します。そう、竹西さん、ずっと早稲田の教育学部で非常勤講師を務められていたそうです。ただその授業を聴講した或る知人によると、真面目なお人柄ゆえか?語りにメリハリが乏しくて、きっと内容は豊かだったでしょうが「面白くない」講義だったそうです。なんとなく想像がつきますね。また如月小春さん(本名は伊藤正子。平凡そのものですが)、演劇に入る前は現代音楽に関心を持ち、だから高橋悠治さんとも早くから親交があったのでしょう。(如月さんの妹さんは音楽批評をなさってました。)法政の学館ですか、懐かしいなあ。前衛音楽イベントのメッカでしたからね。管理を強めたい大学当局によってこのウサンクサイ空間は取り壊されてしましましたが、西の京大西部講堂と並んで、ここは「造反」精神にとってのいわば聖地でした。ところでさいたま彩の国でのダンスイベント「紙飛行機」、「70〜80年代の」ピナ・バウシュそのもの、というのはそれはさぞ刺激的だったでしょう。埼玉の高校生ダンサーが踊った、というのがいいですね(笑)。
ミニヨン
2008/04/18 10:04
埼玉ではなく高崎で瀬山さんのお母様が主催しているスタジオの少女たちが中心したね。ところでミニヨンの由来は荻窪のクラシック喫茶でしょうか。それともゲーテ?
おやさゆみん
2008/04/19 14:45
「おやさゆみ」さま。再々度の投稿、ありがとうございます。「ミニヨン」は無論、ゲーテのあの「君知るや南の国」に登場する少女の名前ですが、「可愛い」というフランス語のニュアンスも含めて、以前に小池昌代さんらと出していた詩の同人誌の名前にしたものです。(そういえば荻窪駅の南口のJR線から見えるところにその名前のクラシック喫茶がありましたね。あと、同名のお菓子屋もどこかに存在します。)そうそう、ファビアンさん振付の舞台は、ピナのところの日本人ダンサー瀬山亜津咲さんのお母様の主宰するバレエ教室の生徒らが踊ったそうですね。舞踊評論の志賀信夫さん情報で僕も知りましたが。
ミニヨン
2008/04/20 12:18
>「劇団綺畸」は、だからもうすでにいったん解散したはずですが、どうやら近年、如月小春を慕う若い世代の演劇青年たちがその劇団名を復活させたようですね。

ネットサーフィンをして偶然このブログに行き当たりました。ちょっと懐かしくなってコメントします。

私は丁度、如月小春さんが去った直後の劇団綺畸に係わりました。当時劇団の正式メンバーは東女の二年生数名と、一般応募で来た役者数名だけしかおらず、如月さん時代に公演を手伝っていた他劇団のスタッフが心配して集まって、なんとか定期的な公演を続けることができたのです。

なので、一旦解散したというより、如月さんが離れた後、世代交代して、活動を続けたということですね。

当時の駒場の劇団で、今も残っているのは、とても少ないと思います。多くは、解散したか、駒場を離れて活動を続けたかでしょう。メンバーが入れ替わっても、劇場が刷新されても、同じ名前で同じ場所で活動しているというのは、やはり名前の持つ魅力なのでしょうかね。
PoorTom
2009/04/04 15:05
「Poor Tom」さま。コメントをありがとうございます。「劇団綺畸」の復活はそういう事情がありましたか。劇団の名称がでもそうして受け継がれるのは大いに悦ばしいことです。でも当時(1975年前後)の駒場キャンパスは演劇シーンも沸騰してましたね。野田秀樹氏が「夢の遊民社」を作り、小春さんの東女+東大のこの「綺畸」が「群集劇」の新しいコンセプトを作り、やや地味でしたが、ポン女+東大の劇団「イェルサレム」が張さんというカリスマ的劇団長のもと、唐十郎の戯曲の新解釈でめざましい芝居を打っていました。いわゆる「小劇場ブーム」が起こるのはさらに10年ほど後の話しでしょう。周辺にいた者としては(僕がバンドマスターだったロックバンドのヴォーカルの辻行介君は、「イェルサレム」でも「綺畸」でも、根津甚八ふうの二枚目役者を務めていました。その関係で主な芝居は全部見ていましたが)、当時の学生演劇熱の行く末が気になりました。しかし、「綺畸」、いまはどんな出し物をやるのでしょうかね。
ミニヨン
2009/04/05 02:10
劇団イェルサレム、張さんではなく長さんでした。イェルサレムは80年代頃にシアター・マーキュリーと改名して、今でも日本女子大+東大の劇団として駒場でやっています。一応歴史的には繋がっているので、同じ名で活動してるということになりますか。長さんと一緒に活動していたメンバーとの関係は全く残っていませんが。
peachthief
2009/06/10 00:18
「桃盗人」さま、これはこれは「懐かしき時代」に関する情報をありがとうございます。そうでした、「長さん」ですね、失敬しました。そうでしたか、「水星劇団」(笑)と改名していましたか、「太陽劇団」ではなくてね。あの頃のメンバーは今はどうしているでしょう、中島氏は確か関西で弁護士として活躍中のはずですし、西田猛氏は保守系の代議士でしたが早世しましたね。彼らが秋の学園祭に日本女子大の講堂で上演した三島由紀夫の「綾の鼓」、優れた舞台だった印象がいまも鮮明に残ります。30数年昔の、われらが青春時代でした。
ミニヨン
2009/06/10 08:52
旧メンバーの悲しい話をお伝えしなければなりません。中島健仁氏は、2007年7月多発性骨髄腫で永眠されました。生きていれば、将来は日本の弁護士会を背負って立つと嘱望されていたのですが。その半年前、ミニヨンさまの世代よりも後のイェルサレムのメンバーだった、信州大学人文学部教授谷沢淳三くんが2007年2月、吐血から急死しました。奥様が解剖を拒否されたので、正確な死因は不明ですが食道静脈瘤の破裂と推測されています。西田猛氏が胃癌で死去されたのが2006年6月でしたので、半年毎のサイクルがしばらく続いていました。
訃報はここまでとして、もうずいぶん経ってしまいましたが、テアトル・ド・ソレイユが2001年9月に行った日本公演「堤防の上の鼓手」に私は感動致しました。
peachthief
2009/06/10 20:04
「peachthief」さま。(すみません。しばらく頂いたコメントの確認を怠りました。)驚きました。西田氏に続いて中島健仁氏までが早世、とは。谷沢氏というかたは存じませんが、やはり50歳前後でのご不幸でしたか。当時の「劇団イェルサレム」の男性陣はこの世での仕事を手早く済ませてそそくさとあちらへと「舞台を降りる」役柄?を宿命づけられていたのでしょうか。悲しいことです。辻行介君や、唐十郎さんの劇団で活躍した「旅籠屋暁美」?さん(女性ですが)らはお元気なのでしょうか。中島氏には一度、僕が辻君らとやっていたロックバンドでお茶の水女子大の学園祭に出演をした時に、楽器運搬のレンタカーの運転手をしてもらい、僕らはアンプの陰に隠れて荷台で運ばれた、なんてこともありました。関西ではよくテレビに出演する人気弁護士、という噂までは聴いていたのですが。――そうでしたか、ご冥福を祈りたいと思います。
ミニヨン
2009/06/22 23:38
辻行介さまは、世界を股にかけて(ノールウェーあたりで)、映画「アルマゲドン」のブルース・ウィリスのように石油を掘っていると聞き及んでいます。先日、日本に帰国した際に会ったという話を、イェルサレムの先輩である藤江隆伍さまから伺いました。イェルサレムから唐さんの状況劇場で活躍した女性というと、下野直子さま、佐々木るり子さまが該当致します。下野さまは、学生劇団などつまらんと唐さんの状況劇場に入団致しましたが、腰を悪くして退団されたと聞いています。唐さんの映画「任侠外伝玄界灘」に出演されたのが佐々木るり子さまです。(下野さまの登場場面は編集段階ですべてカットされたということです。)佐々木るり子さまは現在の名は渡辺るり子さまですが、芝居を観まくるグレた主婦をされています。BR研の立命館教授の西成彦さまならば、もっと詳しい情報を持っていらっしゃるかもしれません。
peachthief
2009/06/23 21:17
「peachthief」さま。さっそくに「詳細情報」をありがとうございます。「行介」は、そうですか、問題なく仕事に精を出しているようですね。「るり子」「直子」「藤江さん」と懐かしい名前が続いて、一瞬、あれは板橋の区民センターだったかな、「イェルサレム」が打った唐さん原作の『海の牙』でしたっけ、舞台シーンが甦るようです(笑)。(そうか、「西」は「るり子」とわりあい仲が良かったから知ってるかもしれませんね。訊いてみましょう。)しかし、当時に演劇に深く関わった皆さんは、政治を志したり舞台の魅惑にのめりこんだり、と、なかなか波乱万丈の人生航路を進んでいったようですね。それにしても懐かしいです。いっぺん「イェルサレム」+「BR研」の合同同窓会でも持ちたいくらいですね(笑)。
ミニヨン
2009/06/24 11:16

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