和歌山市の岩橋(いわせ)千塚古墳群は、強烈なパワースポットです

 
探梅や 枝のさきなる 梅の花      (高野 素十)

 高浜虚子の弟子の四天王にあたる4Sのひとり、素十は、師匠の虚子からも、「厳密なる意味に於ける写生」の実践者として評価されましたね。梅林で梅見をしているところです。梅の木の枝の先に目をやると、そこには梅の花が。なるほど「写生」ですね(笑)。

 先日、郷里の紀州和歌山に帰省していた際に、以前から気になっていた市内の遺跡施設である「紀伊風土記の丘」を訪ねようと思い立ちました。ここへはずいぶん昔、ですから学生時代でしたか、ご近所のひとの車に乗せてもらって見学に来たことはあるのですが、記憶に残るのは、再現された竪穴式住居があったのと、丘のうえからの市街地の見晴らしが良かった、それくらいです。よく晴れた日の正午前、JR和歌山駅前からのバスに乗りました。

 「紀伊風土記の丘」、これは江戸時代の書物である『紀伊続風土記』のなかに、遺跡の中心である「岩橋(いわせ)千塚古墳群」の記述があるため、この名称が採用されたのでしょう。なんとものどかな名前の印象ですが、しかしこの名称は即刻撤回すべきだな、と帰路のバスでは思いました。実際、休日だったこの日は、広い駐車場にはたくさんの車が停められて、来場者もかなり多く、犬を散歩させたり、ハイキング姿のひと、ジョギングスタイルのひと、そんな具合に余暇を楽しみに来たひとがほとんどですが、いやいや、この場の実態は、そんな甘いものじゃありません。5世紀から7世紀半ばにかけて築造された古墳が施設内に400あまり、周辺のを含むとなんと800基を超える古墳群が集った、全国屈指の古代古墳スポットなのですよ。整備されて、いかにも墳墓のような盛り土が点在する丘の道を登りながら、なにやら古代人の霊魂との交感が始まったような、奇妙な胸騒ぎが起こりました。

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 いくつもの古墳は、石室のなかを見学できます。竪穴式と横穴式の両方がありますが、いずれも薄い石材が積み上げられて内部空間を作っています。石棚や石梁も設けられています。材料は、周辺から採集された緑泥片岩だとか。板状に剥離できる性質を利用したそうです。うーん、この築造技術といい、こんなにたくさんの塚を作れた財力といい、5世紀ころにこのあたりにはかなりの文明水準を持った共同体社会が存在したのですね。すでに稲作が定着した時代、紀ノ川下流域のこのあたり、当時としてはかなり広い穀倉地帯だったわけでしょう。

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 さて、丘を登り、見晴らしのよいところに出ました。ここからの眺望、ちょうど北を向くわけですが、目のまえには、紀ノ川の流れる和歌山市内が見渡せます。向こうには和泉山地。以下にそのパノラマ画像をご覧いただきますが、右の端がJR田井ノ瀬駅あたり。とすると、まんなかは、詩人の吉増剛造さんが終戦の年に疎開された永穂(なんご)という村でしょうね。小学校に上ったばかりの吉増さん、お父様ゆかりのこの地に、こんな「古代天文台」ならぬ(笑)古代の墳墓群が存在するとは夢にも思われなかったでしょう。

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 400あるなかで主だった古墳を紹介しましょう。まず「将軍塚古墳」と呼ばれるもので、石室の内部は3メートルもあるでしょうか、立派です。それから大日山35号墳、これは県内最大の前方後円墳で、横穴式石室からは珍しい両面人物埴輪などが発掘されたそうです。

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 以上が岩橋千塚古墳群でした。この日は、近鉄デパートの地下でお昼のお弁当を買い求め持参していたのですが、墳墓のそばではとても呑気にお弁当を食べる気にはなれません。一時間半ほどかけて、古墳群を廻った後に出発点に戻り、やっとランチタイムでした。

 ところで、この「紀伊風土記の丘」の広がる丘状地帯のすぐ西を阪和自動車道という高速道路が走るのですが、さらにその西から南にかけて線路が敷かれているのは、あのネコのタマ駅長で有名な貴志川線なのです。この貴志川線、タマ以外にも名物があります。というか、そもそもこの鉄道がかつて敷設されたのは、「西国三社参り」として知られる、日前宮・竈山神社・伊太祁曽神社の由緒ある三つの神社をこの電車に乗ってお参りするためだったそうですよ。日前宮(にちぜんぐう)と伊太祁曽(いだきそ)はともに紀伊国一ノ宮。近くを熊野古道が通り、かつての王朝貴族たちが熊野に詣でる際にはここにお参りしています。(そう、新古今歌人の藤原定家の日記『明月記』によれば、後鳥羽院の一行に従って熊野三山に参るとき、メインの街道からちょっと離れている日前宮までは、後鳥羽院の代理で定家が参拝した、という記述もあるのです。)そして竈山(かまやま)神社ですよ、問題なのは。

 竈山神社、初代の神武天皇の長兄にあたる彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀ります。というか、『日本書紀』によれば神武東征の際に長髄彦(ながすねひこ)との戦闘で戦死した彦五瀬をここに葬ったとされます。つまり初代天皇の兄のお墓がここにある、というわけです。ですから、現在のこのお宮は宮内庁の管理?にあって立派に作られています。そしてここは、岩橋千塚古墳からは、1.5キロほどの至近距離!時代を考慮しても、あの古墳のなかのひとつが彼の墓だった、という可能性もあるのでは??(学術的には、近くの別の古墳が当初の墓ではないかという説もあるそうです。)なんだかヤマト王権の発生と、岩橋千塚が関係あるのでは、などと思えてきました。これは古代学の西郷信綱さんの著作をもう一回勉強しなくてはなりません(笑)。

 もうひとつ、興味深い場所がありました。それも現在、市内で老母が一人暮らしをしている松江というところから、やはり2キロほどでしょうか、帰省したらいつも利用するスーパーマーケット「パームシティ」のやや西よりの木ノ本という地区に、5世紀ころの前方後円墳があるのですね。いやあまったく知りませんでした。「車駕之古址(しゃかのこし)古墳」という名称です。先ほどの大日山35号墳より少し小さいですが、しかし全長85メートルの墳墓です。訪ねました。うーん、現在は整備されて公園になっています。大きな石が置かれて、塚のうえを自由に歩けます。

 説明によると、これは当時このあたりを支配していた紀氏という豪族の首長の墓だとか。珍しい金製の勾玉が出土して、朝鮮半島との交流も想定されるそうです。この紀氏の末裔が、王朝時代には平安貴族になって、あの紀貫之を生んだのだそうです。いやいや、和歌山市、あなどれませんね(笑)。これからも帰省の度に、古墳遺跡めぐりを続けましょう。

 では、この古墳の東隣100メートルほどにある円墳の「釜山古墳」の画像ともども、外観をご覧ください。

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 お別れの引用句は、西郷さんに登場願いましょう。古代社会の葬送をめぐる記述です。

「肉体の腐敗と魂の純化とは常に表裏の関係にあるわけで、肉体が腐ってゆき骨化するとは、死者の魂が純化されやがて先祖の一人となる過程と重なる。つまり未開のwildな薮原に遺棄されていた死者は、やがて新たな墓標として人びとの住むこの共同体世界に再生するのである。」

                    (西郷 信綱 「黄泉の国とは何か」 『古代人と死ー大地・葬り・魂・王権』)
 


 

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