林浩平の《饒舌三昧》

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zoom RSS 松阪に曾我蕭白を訪ね、新宮では中上健次の墓参でした

<<   作成日時 : 2018/08/05 03:00   >>

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 炎天より 僧ひとり乗り 岐阜羽島     (森 澄雄)

 列島、なおも炎天が続きます。東海道新幹線の岐阜羽島駅、ここは「こだま」しか止まりません。なんだか存在感の希薄な駅ですが、この日も炎天下、乗客は少なく、僧侶装束のひとひとりだけが乗り込んだ、という情景。さすが「俳」になっています(笑)。

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 さてこちらは、江戸時代の「奇想の画家」のひとり、曾我蕭白の作品です。はじめのは、「唐獅子図」、二匹のライオン(唐獅子)君、それぞれの絵が2メートル四方はあるという大きな紙本墨画。重要文化財です。次のは、「獏図杉戸」で、その名の通り、杉の戸に描かれた着色画。ともに三重県は松阪市にある朝田(ちょうでん)寺の所蔵です。

 実はある企画で、この蕭白を採りあげることとなって、その下見取材のために出張旅行に出てきました。七月末の日本列島、ずっと猛暑のままです。名古屋経由で松阪駅に到着。お寺はちょっと郊外にあるので、タクシーで訪ねます。

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 朝田寺は天台宗の由緒あるお寺。現在は牡丹の花の庭で知られていますが、なんといってもここは曾我蕭白(1730〜1781)の30歳代の絵が11点も所蔵されることで名高い、蕭白寺なのです。京都出身の蕭白ですが、わけあって伊勢にしばらく滞在して作品をかなり残しています。「唐獅子図」は、このお寺の本尊の地蔵菩薩の両側の壁に掛けられていたとか。歴史に詳しく、教員歴もお持ちで遺跡発掘にも携わったことがあるというご住職から、お寺と蕭白との関わりをいろいろうかがいました。

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 平安初期の作という地蔵菩薩立像(重文)を祀った本堂にも案内いただきましたが、気になったのは、天井に吊るされた数多い衣類です。そこいらにある、ごく平凡な衣類ですが、うかがえば、これは掛衣と言って、お寺近辺の住人が亡くなると、宗派に関係なく故人が着用した衣類をここにこうして収め、お盆が終わるまで吊るしておくよし。もうずいぶん以前からの風習なのだそうですが、これは実にうるわしいですね。

 思わず連想したのは、現代美術家のクリスチャン・ボルタンスキーが、ずいぶん前に水戸芸術館で行ったインスタレーションです。あれは水戸周辺の民家から、とにかくたくさんの古着を何千着と集めてきて、それを吊るしたものでしたが(農婦のモンペなどもあったのが印象的です)、ユダヤ系であるボルタンスキーにはホロコーストをテーマに、死者の遺影を素材にした作品もあって、ひょっとしたらこの掛衣の風習をどこかで知ったのかもしれません。

 境内をしばらく見学して、なお炎天下、今日この後は本居宣長記念館へでも、と言うと、親切にもご住職が車で記念館まで送ってくださいました。感謝です。

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 松阪の街は20数年ぶりでしたが、当時は宣長記念館というのはまだ建っていなかったはず。大学院では古典和歌を専攻した当方には、国学の大先輩?の宣長先生はやはり気になります。さすがにこの記念館、宣長関係の資料展示は充実していて、大著『古事記伝』版本の版木やら、17歳で描いたという日本地図「大日本天下四海画図」などもありました。とにかく筆マメですね。それに自筆の筆跡が、まるで版本の文字みたいに読み易い。さらには絵心あり、と褒めておきましょう(笑)。

 うえに挙げたのは有名な宣長の自画像ですが、左に自讃のように書かれた自詠がこれです。

 敷島の大和こころをひと問はば 朝日に匂ふ山桜花

 これ、悪名高い「愛国百人一首」に入ってしまいました。宣長には脇が甘いところあり、ですね。だから毒舌家の上田秋成には「弟子ほしや」の「古事記伝兵」と皮肉られました(笑)。

 さて、こちらに移築された宣長の書斎「鈴屋(すずのや)」も見学しましょう。

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 移築されたのは、松阪城址です。邸内は自由に見学ができて、一階の座敷には靴を脱いで上がることもできます。宣長の書斎は二階にあって、本職の医業を済ませたあとは、書斎にこもり、古典の研究と執筆に専心しました。鈴の音を聴くのが好きで、執筆に倦んだときは柱にかけた鈴を鳴らしたので、二階の書斎は「鈴屋」と称したわけです。

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 松阪城址には、小説家・梶井基次郎の作品「城のある町にて」の一節が刻まれた文学碑も建っています。梶井の姉がこの街に嫁いで住んでいたので、遊びに来てしばらくを過ごしたことがあります。この短編はその体験をもとに書かれました。

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 こちらは御城番屋敷(ごじょうばんやしき)です。ここも松阪城址で、三の丸跡なのですね。(向こうに、小高い二の丸跡の石垣が見えています。)松阪市は江戸時代は紀州藩に属していたので、お城の警備を担当する紀州藩士が家族たちと住んだのがこちらです。長屋状のこの建築物は現役ですよ。一般の家族が生活しています。続く生垣と石畳がきれいなので、今では街の顔のひとつになりましたね。

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 翌日は、台風12号が日本に接近してきたために朝から生憎のお天気です。でも松阪市でもうひとつの有名な蕭白の絵を所蔵する継松寺(けいしょうじ)を訪ねました。若いご住職にお願いして蕭白の絵が掛けられたお座敷にお邪魔します。ほほう、ありますね、代表作のひとつ「雪山童子図」、紙本着色です。丸々と太った童子、実は前世が釈迦牟尼で、これから鬼の口に身を投げる、という仏教の説話?から取った主題だそうです。しかしこれ、ほとんどポップアート(笑)。いやこのお座敷のある書院はとても立派な建造物です。他にも気になる絵や書が飾られています。とても心惹かれる書があったので撮らせていただきました。誰の書ですか、と尋ねると、「池大雅の友人だった韓天寿のものです」とのよし。この韓天寿と親しかったので、大雅も何度か松阪を訪ねているとのこと。

 ああ、思い出しました(笑)、この5月には京博に池大雅展を観に行って、このブログでもレポートしましたが、旅好きの大雅は、富士山や白山に登って作品も残しています、その際に行動を共にしたのが親友のふたり、篆刻で有名な高芙蓉と、伊勢の書家ですね、この韓天寿でした。なるほど、品のある書ですよ。

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 さてさて、突然に山の風景になりましたが、ご容赦を(笑)。本来ならJR紀勢本線の特急「南紀」号に乗って、新宮まで移動する予定で指定席券も用意していました。ところが駅にゆくと、「台風が近畿地方に向かってくるために本日の特急はすべて運休です」とのアナウンス。ウソだろう!です。雨は上がっており、時に陽も射しています。なのに運休とは、JRは気が小さすぎです!「新宮に行きたいんですが」というと、「特急バスを利用ください」とのこと。とにかく仕方ありません。バスを結局3台乗り継いで、5時間近くかけて新宮になんとか入りました。

 バスの車窓からパチリと撮った熊野地方の風景です。昔、折口信夫は弟子たちを連れてこのあたりを徒歩で旅して、その経験から詠まれた短歌をまとめて『海やまのあひだ』と題しましたね。実際、海山町(みやまちょう)という町も通りましたが、思いがけなく、バスで海山の間を抜けました。

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 新宮のホテルで一泊して翌朝です、おやおや台風12号がちょうど近畿地方を横断しています。紀勢本線は運転再開の目途が立たず、と朝から運休です。これは予定変更。新宮でしばらく過ごさねばなりません。速玉大社の境内にある佐藤春夫記念館は、一昨年の九月に「放送大学」特別講義のロケで訪ねました。その折には、丹鶴城址など市内の各地も回ったのですが、行きそびれたところがふたつありました。そのひとつがここ、「浮島の森」ですね。昔、30何年前に一度訪ねていますから、二度目、いや三度目かな。

 ここはそもそも腐敗した植物が堆積して泥炭となって形成された島ですから、浮島なのです。そしてここに伝わる伝説を素材にして上田秋成が書いたのが『雨月物語』のなかの「蛇性の婬」。文中「蛇(おろち)の塚」として登場します。

 そしてもうひとつが、市内の南谷墓地にある、作家の中上健次の墓でした。

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 中上健次が、いまからすればほんとに若かったです、46歳という年齢で亡くなったのは、1992年の8月12日でした。新宮出身の中上さんと同じく和歌山県の御坊市に本籍のある僕は、いささかのご縁はあったのですが、二度のニアミス?を経て、とうとう生前にお会いする機会がないままでした。いつか中上さんのお墓参りに、と思いながらも、一昨年のロケではとてもそんなことを言い出す余裕もなく、今回もいわば台風のお陰でやっとお詣りを果たすことができます。

 墓地まではタクシーで来ましたが、若い運転手さん、「読者のひとがときどきお参りに見えますよ」とのことでお墓の場所も知っていました。しかし、実際のお墓があるのは、かなりな急こう配の坂を登ったところ。ここは足で登って、墓石の前で思わず、「中上さん」と呼びかけていました。

 午後になって、やっと紀勢本線が開通。特急「くろしお」で終点の新大阪まで、4時間かかります。そこから目的地の京都に着きました。翌日もまた炎暑のなか、地下鉄の「鞍馬口」で降りて、興聖寺(こうしょうじ)というお寺を探しました。訪問のことはあらかじめ伝えてあったので、案内を受けて、ここです、曾我蕭白の墓にお詣りしました。

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 「曾我蕭白之墓」、これは佳い字ですね。ただ者の筆跡ではない。と、墓石の裏を見てみると、明治41年にこの墓を修復?したという文言と一緒に、おお、こんな文字を発見です。

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 「鉄斎外史書」の文字がありますね。そう、この墓碑銘を書いたのは、儒者で画家の富岡鉄斎なのでした。明治41年のころは、蕭白、まだいまのような人気画家ではありません。そんなときに、鉄斎が進んでこれを書いたというのは、まあ鉄斎の慧眼を語っているでしょう。

 猛暑のなかの旅でしたが、収穫の多いものとなりました。

 お別れの引用句、蕭白について評した後代の画家の言葉としましょう。

「世人、狂人を以て目す。」   
                           (岡田樗軒 『近世逸人画伝』)

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