林浩平の《饒舌三昧》

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zoom RSS 御坊市の史跡案内(3)と「祓井戸」の地名縁起+一休寺は森浩一氏の墓所です

<<   作成日時 : 2017/09/01 18:51   >>

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 鼻声の 屑屋通りけり 軒糸瓜(へちま)     (吉岡 実)

 詩人の吉岡実さんの句集『奴草』から。現代詩の前衛派は、俳句となると一転、下町の庶民の暮らしの風景を的確な描写であらわします。屑屋、つまり廃品回収業者が、「くずーい、おはらーい」とか声を出しながら街を流しているわけですが、それが鼻声だった、というのが面白いです。秋になって、軒に糸瓜が下がっています。

 さて前々回からの紀州は御坊市の古墳探訪の旅、今日は旧熊野古道の塩屋と野島の史跡などをご案内しましょう。岩内一号墳は有間皇子の墓所か、という故森浩一さん提唱の学説、ずいぶんリアリティを持つように思えますが、既存の制度保持しか念頭にない、超保守体質の宮内庁がこれを簡単に認めるか、となるとちとむずかしいでしょうね。ともあれ、この話を知ったことから俄然火が付きました、わが郷土の古代史のアルケオロジー(考古学、M・フーコー流の?)、なおバトンをつないでゆきましょう。

 塩屋の里が、平安朝以来の熊野詣に熱心だった王朝歌人らによく詠まれた歌枕であったのは、前回も触れましたが、その南塩屋に、林の本家の菩提寺である光専寺があります。ここはまあどの町にでもある規模の、平凡な浄土真宗のお寺ですが、ウリなのが境内にある、樹齢六百年以上か、というビャクシンなのですね。和歌山県指定文化財となっています。紹介します。

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いかがですか、六百年前となると鎌倉時代、熊野古道に沿ってますから、それこそ藤原定家も見た?かも、です。定家さん、漢文日記の『明月記』のなかでは、後鳥羽院の熊野詣に付き従って、徒歩で悪路を歩くことへの愚痴など連ねています。後鳥羽院は輿(こし)にかつがれての移動ですからラクでしょうが。

 さてこの4枚の画像、先日の墓参の折に撮ったものじゃありません。年に二回訪ねるご先祖の墓所を撮っても仕方ないですからね(笑)。WEB上にアップされたものを拝借しました。いや、熊野古道ブームですから、古道を歩いては自分で映像紀行ふうにHPで紹介するひとも多くて、この後の画像もみんなそうして拾いました。

 光専寺から南に数百メートル進みましょう。海岸には前回に紹介した尾ノ崎古墳がありますが、そちらではなく、古道は峠を越えます。ここは通称、観音山。この峠からの景色が風光明媚、右手に明るく輝く南紀の海が広がるのです。子どものころは、お墓参りした後は南塩屋の店で祖父にアイスクリームを買ってもらって、この峠に腰掛けて、海を眺めながら食べたものです。そしてしばらく南へ歩くと、左手に建つのが祓井戸の観音堂ですね。

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 観音堂の前には蘇鉄などの亜熱帯植物もあって、このあたり温暖な南紀特有の気候であるのがよくわかります。お堂の前には小さな池があり、子どものころ鮒を釣ろうと竹竿をかざしていると、「ここで殺生するもんやない」と近所のおじさんに叱られたことがありました。お堂には、画像にあげましたが、徳本(とくほん)上人の名号碑、つまり「南無阿弥陀仏」の文字を刻んだ碑があるのですね。徳本は、この日高出身の江戸後期の高名な浄土宗の僧侶でした。厳しい修行を積んだ徳の高い僧として崇敬されてましたね。さすがに上人さんの池での鮒釣りはNGでしょう(笑)。

 さて、熊野古道が国道42号線となったところをしばらく歩くと、右手が旧道(元の熊野古道)との別れ道の三叉路です。旧道を少し下ると、右に林の本家。そしてやはり前回に紹介した「一里塚碑」です。碑の解説文が読める画像もあげておきます。そして祓井戸地区の航空写真もどうぞ。

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 祓井戸地区を南に下ってゆくと、前回に紹介した秋葉山古墳群がありますが、その少し手前あるのが、「安珍清姫伝説」に登場する「清姫草履塚」です。安珍を追っかける清姫が、履いていた草履を捨てた場所とされます。さらに南の楠井地区には、「清姫腰掛け石」なんてのも残されてますね。今回の史跡探訪で、ちょっと気になったのは、草履塚のそばにある「十三塚」でした。国道の改修のために場所を移されたよしですが、小ぶりの十三体の塚が並ぶそうです。伝承によれば、熊野詣に訪れた出羽国の山伏の一行が、阿波の海賊に襲われて斬られ、十三人が落命したとのこと。それを憐れんで地元の村人がこれを建てたそうです。次回の帰省の折には、ここも訪ねてきましょう。

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 ここからさらに印南(いなみ)のほうに下ると、上野地区。かつては上野王子があった場所に、仏井戸という史跡があるそうです。石の表面に阿弥陀三尊像が彫られたもので、その石は井戸のなかにあるため、ふだんは水につかっているとか。室町時代のものだそうで、全国的にも珍しいとされます。この仏井戸を拝むひとの絵が、江戸末期に出来た『紀州国名所図絵』にも登場していますね。ここも次回に行かなくては。

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 以上、祓井戸周辺の史跡の紹介でしたが、この「祓井戸」という地名に関しては、やはり古くからの伝承があります。僕の子どものころは、子どもに教えるからということもあるでしょうが、表記を「原井戸」としていましたね。祖父母に葉書を出す際もこの地名表記でした。しかしこれじゃあ肝心の神話性が消えてしまいます。子ども時代に祖父から聞かされたのは、裏の海岸の砂浜にある井戸で、大昔漂着した神様が「お祓い」をしたので、この名がついた、というものでしたが、これはまったくの子どもだまし(笑)。

 「祓井戸観音堂由来記」なるものがあって、原本は失われたそうですが、その写しが残っていて、それを解説した看板が、先ほど紹介した観音堂にゆく道ばたに建っています。やはりWEB上に出た画像を引きましょう。

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 それによると、天智天皇の時代に「大峰の役行者」がこのあたりで、「錫杖の柄」で「井の形を掘らせ給ふに」、不思議なことには、「その夜、伊勢皇太神宮、一万度の御祓、井元なる木の枝にかかりたり」、よって「祓井戸村と号す」とのことです。なんだかよくわかりませんが(笑)、伊勢神宮まで登場するのですから、それなりに格式の高い?神話が背景にあるようです。

 もうひとつの地名起源説話は、前々回の小竹(しの)八幡のところで触れました、三韓征伐で知られる神功(じんぐう)皇后に関わるものです。『日本書紀』の巻九の神功皇后のくだりによれば、皇后は忍熊王(おしくまのみこ)との政争で戦闘になった際、攻撃に出ようと紀州の沖に船で現れたのです。『日本書紀』を引きましょう。

「皇后、南(みなみのかた)紀伊国に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ=皇太子で息子の後の応神天皇)に日高に会ひぬ。群臣と議(はか)りて、遂に忍熊王を攻めむとして、更に小竹(しの)宮に遷(うつ)ります。」

 さあこの日高(御坊)の海岸にやってきたときのことです。その上陸に際してこの村の井戸でお祓いをしたので、「祓井戸」の名が残ったというもの。祖父から聞いた話では、漂着したのはよれよれになった田舎の神様(笑)かと思い、そのイメージで来たのですが、あの卑弥呼にも比定される神功皇后でしたか。わが「祓井戸村」、どっこい捨ておかれませんな(笑)。

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 画像、僕のデジカメで撮ったものに変わりましたが、さてここは、京都府の南の京田辺市にある酬恩庵一休寺、そう、あの一休宗純が人生の後半を過ごしたお寺です。木像は一休さん。実は或る企画で一休のことを採りあげようとなって、紀州御坊に旅する四日前でしたが、滞在していた和歌山市からここを訪ねました。このお寺、いろいろ見どころがあってそのレポートをするつもりでしたが、まあ今回は御坊の古墳問題!にこだわります(笑)。

 御坊の古墳巡りなどでは色々とお世話になった、「岩内一号墳=有間皇子の墓」を広めようとされている「東山の森Ark」代表の東睦子さんにうかがったのは、この一休寺の墓地に、2013年に亡くなった森浩一さんのお墓がある、とのこと。それはなんという偶然でしょう。岩内古墳群を訪ねる前でしたが、森先生のお墓にお参りしなくてはいけません。森先生は同志社大学で長い間教鞭をとられたのですが、現在同志社のキャンパスはこの京田辺市にかなり移転しているわけで、そんなご縁も関わったのでしょう。一休寺の受付の女性にうかがって、墓地の地図を確認し、お墓を探します。すぐにわかりました。

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 お別れの引用句、「祓井戸」問題にこだわって、地名を主題とした書物から引きましょう。谷川健一さんは、まさに地名学者でしたが、奈良地方の地名を専門的に研究している池田末則さんというかたとの対談での池田さんの言葉を紹介しましょう。

「地名研究家はまずこの地名はどうして発生したかという起源論に執着してしまいます。発生論もたしかに大切なことですが、それよりも、地名がそこにあるという存在性が貴重なのです。」

                                  (谷川 健一編  『地名の話』)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
祓井戸の地名起源譚、いろいろあって面白いですね。お祖父さまから聞いた話も伝承がどのように変容してゆくのかという問題を考える上で、興味深い例だと思います。また好字意識から「祓井戸」が「原井戸」に変えられてゆくのも面白いです。

大峰山の役行者が錫杖で井戸を掘ったというのは、弘法清水の伝説とまったく同じ。皇太神宮のお祓いがその井戸の側の木に掛かっていたというのは、伊勢神宮のお札が掛かっていたということ。それで「祓井戸」と呼ぶようになったというのでしょう。神仏習合したような伝承ですね。
sakaho
2017/09/03 19:49
sakahoさま、なるほど、祓井戸の地名起源説話、神仏習合の要素がありそうですか。どうもこういう土俗の風土で成長したためもあるでしょうか、僕のなかに、神仏習合の世界の親和性が育ったようでもありますね。だからこその折口信夫であり、一遍上人であり、そして「神仏習合」思想の心強い支持者としての白洲正子でしょうか、心惹かれる存在なのですね。いま能登の和倉温泉に来ています。昼には、JR七尾線で折口の墓のある羽咋を通過しました。
ミニヨン
2017/09/03 20:46

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